cantabile |
王子様だと、その時思った。 風が吹き流れていく。向日葵の花弁が嬲られて揺れている。土手に揃えたように生える 草が流れるように動く様を見て、海の波が陽子の脳裏に浮かんだ。潮騒の匂いがした。 「お兄ちゃん…?」 少女を見つめる景麒の表情が険しくなる。唇を噛む景麒の元に、紙飛行機を持った陽子が駆け寄ってくる。 (やはりこの方で…間違いない) 意を決して景麒は片膝を少女の前につけば、少女は驚いた声を上げた。 「え?なに?」 成約ができるかどうかはまだ分からない。だがただ景麒は跪いたまま、声が出せずにいた。 麒麟の世界でならば、この年齢で王を選ぶこともざらにあるが―――その逆は聞いたことがない。 例外として最年少の王として齢十二の恭の祭晶が挙げられるが、それでも逆の見方をすればもう十二になっているとも言える。肝っ玉も十分に据わり、大人顔負けの判断力を有していたと聞く祭晶は、その時点で時を止めても国を治めるのに何の問題もなかったということだ。 今の景麒にとって間違いなく分かることは、彼女が景の鵬雛であるということだけ。 景麒が顔を翻し、少女を見る。だが。 「え…?」 少女の戸惑ったような、自分の状況さえも判断できていない様子に、景麒は悟る。 駄目だ。 成約はできない。できないくらいにあまりに幼すぎる。 唇を噛んで俯いた景麒の上から、少女の羽のような声が降ってきた。気落ちしている彼にかけられたのは予想もしない言葉だった。 「ねぇお兄ちゃん…お兄ちゃんは、王子様なの?」 「…は?」 「だって、お兄ちゃん金色の髪の毛してるし、かっこいいし、お姫様を迎えに来た王子様なんでしょ?」 映画でも王子様は金色の髪をしていることが多いもん、そう言われた言葉の意味がすぐに飲み込めず、景麒は目を瞬く。ゆっくりと〝おうじさま〟という言葉が太子という馴染みのある響きに景麒の脳内で変換され、彼は首を傾げた。 「…私は麒麟です。太子ではありません」 「きりん?」 景麒は驚いて目を瞬く。幼いとは思っていたが、麒麟も知らないのか。 「私が生涯をかけて仕えるのは、ただ一人景王だけです。公主の肩書きにおられる方とのつながりは今のところございませんが…」 陽子は目を瞬く。太子や公主など、彼が使っていた単語はよくわからなかったが、景麒の口から出た王子様ではないという意味合いの言葉は、陽子にとっては心底意外だったようだ。 「そうなんだ!王様に仕えるんだ…じゃあ…騎士だね!王様に従う騎士。うん。お兄ちゃんならかっこいい騎士様も、騎士様と恋するお姫様も似合うよ」 何と答えたら良いのか分からず困惑する表情の景麒に、陽子は笑う。だけど俯いた景麒の表情を見るうちに、少しずつ寂しそうな表情へと変わっていく。 「それにしても…どうして、そんなにずっと辛そうな顔をしているの?」 景麒は応えられなかった。思わず声を詰まらせた青年を見て、少女は笑った。 「もしお兄ちゃんが笑顔になれることがあったら…それが私にできることだったら言って?」 景麒の顔が上がる。陽子の目の前には何かを堪えるような男の表情があった。 ならば。 「私と共に常世へ来てください」 目を瞬いた陽子は、その言葉をお出かけと結びつけた。いいよ、と陽子は笑う。 「でもお兄ちゃん、私でいいの?お姫様を迎えに来たんじゃないの?」 違います、〝おひめさま〟ではありません。と景麒は仏頂面で少女に向かい合う。 「私が迎えに来たのは…貴方です」 訳が分からないまま、少女はただただ目を丸くする。 その言葉の重要性を知るのには、陽子はまだ幼すぎた。 今の慶国は祭りの時期だ。 色とりどりの装飾品が、夏の闇の中で提灯の明かりを受けてきらめいている。女人追放礼の余波を受けているこの国でも、祭りは数少ない人々の癒しとして執り行われる。苦しいこの国に一刻も早く王を、と景麒は思う。だけどその当人である陽子は今は目の前の祭りの光景に頭がいっぱいのようだった。 「けいきー!!見てみて!すごいのがいっぱいあるよー」 景麒に向かって陽子は元気いっぱいに手を振る。どうしたら良いのかわからなかったが、景麒もおずおずと手を振り返す。肉屋の屋台の前で、あぶられている串焼きをさしながら陽子が声を張る。 「けいき、お肉食べたい?」 「…私は、肉や油物は口にできません」 「え?!そうなの?!」 一歩引いて周りを気にして応えた景麒に陽子は心底驚いたようだった。常世に連れてこられた陽子は目に映るもの全てに面白がって反応した。その中でも暮れ始めたこの時間帯、目の前で始まろうとしていた祭りに彼女が飛びつかない筈がなかった。 陽子は景麒に渡された僅かな貨幣を手の平の上に乗せながら、何を買おうか迷っている。だけどそんな陽子とは裏腹に、景麒の脳裏にあるのは祭りのことよりももっと大きな焦りだった。 (やはり、もう…誓約を結んだほうがいいのか) 王が誰か、景麒にはもう分かっている。一刻も早く玉座に王を召し上げることが麒麟の自分に課せられた使命なのではないか。だけど――やはりまだ駄目だ。幼すぎる。前王の時のように傀儡政権になるのは目に見えている以上、少女が育つのを待つべきだ。 景麒が葛藤していたその時だった。ふと目の前に甘い香りのするものが突き出された。 「?!」 目を瞬けば目の前に陽子がいた。差し出されたのは甘く煮詰めた果物を串に刺したものだ。思わず呆気に取られている景麒に陽子は笑う。 「ねぇねぇ。これなら、景麒も食べられるでしょう?」 「…ありがとうございます」 そう言って受け取れば、陽子は嬉しそうに笑った。 暮れゆく祭りの風景を見ながら、二人並んで串に刺された煮詰めた果物を食べた。陽子は楽しそうに足をぶらぶらとさせながら祭りの様子を見つめている。この類の果物ならば、もっと良いものを蓬山でたくさん食べた。祭りで出されるものはどれも強い着色料で傷んだ果物をごまかして、安い砂糖で強めの味付けをしていることが多い。自分の舌に合うはずがない。これもきっとそうなのに、何故、これ程うまいのか分からなかった。景麒を見ながら、不意に陽子が笑う。 「へへっ良かった」 「…何がですか」 「けいきが元気になったみたいだから」 景麒は俯く。陽子は笑う。 焦りは消せない。それなのに、同時に何故こんなに満たされた気持ちになるのか、景麒には分からなかった。 麒麟は王を求めるが、目の前の少女とはまだ誓約さえしてないのに。 この幼すぎる未来の主人といると、急に分からないことが増えた気がした。 祭りは夜店がポツリポツリと店じまいをする気配から急速に終りへと向かっていく。 そろそろ、と連れ出した陽子は手を引かれるままに大人しく景麒とひょうきの背中に乗った。陽子がそわそわと落ち着かなくなってきたのは、それからもう少し経った時。祭りの風景から離れ、田舎の明かりも灯らない方へ風景が流れ始めた頃だった。 「ねぇけいき、もうそろそろ帰らないとお母さんが心配しちゃうよ」 小さな声だった。 あたりがもう真っ暗だということに、今更彼女は気がついたようだった。きょろきょろと陽子は当たりを見渡す。だけど景麒はただただ何でもないことのように言葉を返す。 「貴方様はお帰りにはなれません。慶国の時期王…景王として、慶を見聞し、学んでいただかなくてはならないのです」 その瞬間、陽子の動きが止まった。 「なんで?」 「だから…それは…」 「なんで?」 大きく見開いた目にぶわぁっと透明な涙が盛り上がっていく。 「なんでもうお母さんに会えないの?」 景麒の動きが固まった。 「けいきの元気が出るなら、ついて行ってあげるって言ったけど…でもその時、けいきはついて行ったらお母さんともう会えないなんて一言も言わなかったよ?」 声が出ない。景麒がかろうじて出せた言葉はたったの一言だった。 「…申し訳ございません」 ボロボロと涙の粒が次から次へと陽子の頬を伝う。 「なんで?どうして?どうしてそういうこと言わないの?けいきはお母さんいないの?お母さんと会えなくなるなんて大事なこと何で言わなかったの?」 景麒はうなだれる。何と言ったらよいのか分からなかった。たった一つ頭に浮かんだのは、陽子から自分にむけられた質問の一つへの答えだった。 「…私に、母はいません」 ポツリと小さく言葉をこぼした。 「麒麟は蓬山の捨身木に卵果がなります。そして同時に麒麟の世話をする女怪が生まれます。女怪は私を大事にしてくれますが、そもそも景麒としてではなく、私個人の誕生を願って木に帯を結ぶ母の存在はありません」 陽子は衝撃を受けたように景麒を見つめる。景麒に母という存在がそもそもいなかったことに陽子はどこか殴られたような顔をしていた。 「だから私には…母の存在の重さが分かりません」 貴方にとって、母という存在がそんなに大切だということに気がつきませんでした、そう景麒は呟く。 「考えが及ばず…お伝えせず申し訳ありません」 陽子はもう、何も言わなかった。そして俯いたまま、小さく呟いた。どこか捨て鉢な、この行き場の感情をどうしたらよいのか持て余しているような声だった。 「…前にけいきは自分のことを王子様じゃないって言ったよね」 景麒は何も応えられなかった。風を切って進む夜空の温度が冷たい。 「けいきは確かに王子様じゃないよ」 声は震えて固かった。 「…ブリキの騎士だよ」 「ぶりき…?」 「王様に仕える騎士でもそれじゃあ心は…オズの魔法使いの…ブリキの兵隊といっしょ」 ぐすぐすと陽子は泣いた。〝ぶりき〟の意味が分からず、陽子が母親を恋しがって泣く意味が分からず景麒は狼狽える。母とはそれほど温かいものなのか。それほど恋しいものなのか。声をかけようにも、陽子の小さな背中は、細い首筋は景麒の言葉を拒絶しているようだった。ただどうしたらいいのか分からないまま、景麒は昔女怪がやってくれたことを真似るままおずおずと少女の頭をぎこちなく撫でた。 「…!」 そうしてそのまま後ろから少女をそっと抱きしめる。頭を撫でながら、景麒の口から漏れたのは人型になる術さえ知らなかった幼い頃に女怪や女仙たちが歌ってくれた子守唄だった。 予想もしない景麒の行動に、驚いたように陽子は振り返る。目を見開いて呆然と景麒を見つめた――次の瞬間。 陽子は火が付いたように泣き出した。 わあわあと泣きながら、陽子は体の向きを変えて景麒にしがみついて彼の袍に顔を埋める。少女の頭を撫でながら、景麒はつっかえながら歌を口ずさむ。 へたくそなかたことの子守唄だけが、夜空の星に混ざって消えていった。 固継の街並みの一角。小さな大門の前で髪を隠した景麒と陽子がひとりの老人と向かい合っていた。少女の手を引きながら、景麒は老人に会釈する。 「お世話になります」 「いや。こちらも嬉しい限りなのですじゃ。まさかこの年になってこんな…景の鵬鄒を育てる大役を任されることになるとはのぅ。長生きもしてみるものじゃ」 豊かな白銀の髭を蓄えた老人―――遠甫は穏やかに微笑む。人よりも遥かに長い人生を重ねながら、年月の重みを感じさせない軽やかなこの老人には、柔らかい花が似合う気がした。景麒は目の前の神仙に、自分の正直な気持ちを吐露する。 「本当は…今すぐに誓約を結んだ方が良いのかと…迷っています」 「焦る気持ちも分かるが…急いてはいかんよ。何事も時期というものがあるでのう。きっと後に、貴方は王に雛の時期に巡り会えた幸せが分かるじゃろうて」 遠甫の言葉の意味は景麒にはわからない。だがそれは陽子も同様なようで、難しい大人二人の会話をきょとんと聞いている。そんな陽子を見下ろしながら遠甫は笑う。 「こんにちは、儂は遠甫と言うもの、お嬢ちゃんは?」 「こんにちは!陽子です!八歳!!」 「そうかそうか。それは元気な盛りじゃ。実はのぅ陽子、ここにはお前さんとちょうど同い年の娘がいるんじゃ」 「え!そうなの?!」 「そうじゃ、彼女の名前は…」 だが、遠甫が言い終わる前に、こちらに駆けてくる足音と大きな声が彼らの会話を遮った。 「わあ!新しい子だー!!」 黒髪の優しそうな少女が嬉しそうにこちらに向かってくる。あの子じゃよ、と苦笑する遠甫に陽子の顔が輝く。 「私、蘭玉!よろしくね!」 そう言って、少女は元気よく目の前に手を差し出してきた。 名乗られたことも陽子は分からない。だけどそれでも、少女と目と目があった瞬間、まだ言葉が通じなくても――この手を取れば二人はあっという間に「友達」という名の関係へと走っていける気がした。陽子は幼すぎて、まだその感覚自体も言葉にすることはできなかったけれど。それでもその感覚は、彼女にとって何よりも確かな確信だった。 「ねぇけいき」 「はい」 「私、まだお母さんに会えないこと言わなかったことおこってるから」 「…はい」 あと。 「私は…お姫様にはなれないから」 でもそれでもいいんなら。 「けいきがどうしてもっていうのなら…ずっと一緒にいてあげる」 一際強い風が吹く。景麒の金色の髪と、陽子の髪が流される中、一度だけ少女の瞳がこちらを向く。 目を瞬く間もなかった。 次の瞬間には、陽子は蘭玉の手を取り、幼い二つの後ろ姿は彼方へと駆け去っていった。 呆然と立ち尽くす景麒。遠甫老人が、楽しそうに笑う声がした。 |