amabail


出会った主は――――あまりに幼すぎた。


 蝉の声がする。
 この音だけで暑さを増しているように思えるのは気のせいか。音の元を睨もうにも、四方八方からがなるようになく姿の見えない蝉は多すぎて、景麒にできることは立ち止まって振り仰ぐことだけだった。上空から漏れる夏の濃い木漏れ日が、彼の顔に斑を揺らす。
(夏と私は…相性が悪い)
 ずるずると足元に絡む袍の裾を景麒は苛立ちまぎれに振り払う。森の獣道でこの衣はこんなに歩きづらいものだとは知らなかった。常世では高貴な色とされるこの黒色も、彼にとってはとっくに降り注ぐ夏の日光を吸収するだけの迷惑な色に成り下がっていた。

何故か常世よりも遥かに気温の高いこの蓬莱では、特に。

 視線を上げれば、獣道が開けた一点からは景麒にとっては馴染みのない材質で出来た町並みが広がる。立ち並ぶ鉄筋コンクリートの高層ビルも、隙間を縫うように動いている自動車も景麒は名称すら知らない。ただ、景麒にとっては全てが視界の中で合わさって小さな模型に見えた。瞳の中で、写し出された無機質な街の姿が微かに歪む。
(ここにいる。間違いない)
 確信したように瞬きした次の瞬間には、景麒の姿は消えていた。その瞬間、一瞬蝉の鳴き声が一斉に止んだ。
男の姿はそこにはもうない。暑さも息苦しさもどうでもいい。

 求めている光が、その中にあった。


 仰ぐように立ち並ぶビルの高さに、通りを行く人の多さに、景麒はうんざりとしながら歩みを進める。遁甲しても良いのだが、如何せん人通りが多すぎた。街ゆく人々がすれ違いざまにちらちら彼のことを見てくるのもあまり気分が良いものでもない。だが、それも目的を達成するためならば耐えてみせる、そう景麒は微かに視線を鋭くする。
 心に浮かぶ思いは一つだ。
(一刻も早く…慶に王を)
 目の前の人ごみが、急速に遠く感じられる。
 景麒が初めて麒麟として選んだのは短命続きだと言われていた女王。女王は自身が王であることを拒絶し、宮中に立て篭り景麒へと恋着して国を傾けた。慶国全土を驚愕させた女人追放礼は、慶国の史上最大の国家存亡の危機であったと言われている。
 王の道を正せなかった責は、失道という形で王の半身である景麒に向かって牙を剥いた。
 国を傾けた恋。
矛盾しているようだが、崩れていく王を支えていたものまた、ただ一つの恋だった。
景麒が死ぬことだけは耐えられなかった先帝舒覚は、自ら天に冠位を返還しこの世を去った。結果的に彼女が玉座にいたのは六年という、あまりにも短い在位だった。
 失道から立ち直ることができた麒麟は少ない。

だがそれが幸運なことなのかそうではないのか、景麒には分からなかった。

だからこそ、今は一刻も早く。麒麟として生き残った意味を果たすために。景麒の頭の中には、一種の脅迫じみたような決意があるだけだった。
 王、王、王。
だがそう思った瞬間、景麒の意識を現実に引き戻すように、目の前に突然白い手が伸びてきた。
「どうぞー」
 豆を炒ったような香ばしい香りと明るい声が同時に響く。見れば何か飲み物を売っているような店の前で自分の足が止まっていた。目の前には自分に向かって差し出された広告。振り仰げば遥か高い所にある電光掲示板では文字が流れていく。本日最高気温更新と橙色に点滅する電子文字は景麒には読めなかった。
「…?」
手渡された広告を見ても、同じく蓬莱の言葉を読めない景麒にとっては何が何やら全くわからない。
 僅かに顔をしかめた景麒を、広告を渡してきたカフェのアルバイト店員はしげしげと観察する。
「今日はお買い物ですか?何かお探しのものでも?」
 ピタリと景麒の動きが止まる。次の瞬間紡がれた二文字は、彼女にとって何なのか認識できなかった。
「オウ」
「は?」
「ケイオウ」
 アルバイトの店員の顔が訳が分からなさそうに揺れる。仏頂面のまま、彼の視線はまたはるか先に向けられる。はっと今の自分の仕事を思い出したように、彼女は後ろを向きながら声を上げる。
「そういえば、今ちょうど新商品の試飲行ってるんですよ!もしお時間よろしければ是非…」
 だが小さな試飲用のカップにコーヒーを注いだ彼女は動きを止める。
「…え?」

 街中なのに潮風の匂いがする。雑踏の音だけが人混みから流れていく。
彼女が見ていた男の姿は、振り返った瞬間にはもう掻き消えていた。


 夏の日射しを受けたクリーム色のカーテンが、大きな帆のように張って窓に張り付いている。堪えきれずにカーテンの端が窓の淵から滑りでた瞬間、駆け抜けるように風が通り過ぎた。
「わ!すっげえ飛んだ!」
 深緑色の黒板の前で、男子たちが真っ白な紙飛行機を飛ばして遊んでいる。深緑の上で鮮やかな白が行ったりきたりを繰り返していた。そんな光景を羨ましそうに見ている陽子の意識を、隣で走った声が引き戻す。
「ようこちゃん、聞いてる?」
 はっとした陽子は慌てて意識をそちらに戻す。振り返れば帰りの会が始まるまでの間、陽子の席のそばまできて話をしていた子の怒った顔があった。
「え?な、なに?」
「やっぱり聞いてない!ディズニーの王子様の話してたじゃん」
「そ、そうだっけ…」
「ね、ようこちゃんだったら誰がいい?やっぱりラプンツェルのユージーンだよね!」
「…ど、どうかな」
テレビが布教しきったこのご時世。お姫様=ディズニープリンセスが成り立っている子どもたちにとってはこんな話になるのも自然な流れだ。でも話の最中でも、陽子の目は黒板の前を行き交う紙飛行機をちらりと追う。
「やっぱ女の子のきゅうきょくの夢は王子様だよ、ね、ようこちゃん」
そうかなぁと心のどこかで誰かが思う。でもそう言うと嫌われてしまいそうな気がして、怯えた陽子は今日も肩を竦ませる。
「…そうだね」
 陽子の目は真っ白なアイロンをかけたような紙飛行機に集中している。本当は男子に混ざってあそびたいけど、それはできない。だから今陽子の頭の中にあるのは顔のない王子様よりも、図工の先生が教えてくれた紙飛行機を一刻も早く飛ばしてみることだけだった。
 扉が引かれて先生が現れる音と、男子が怒られる声がした。


 この場所は、自然の少ない都内では子どもが遊ぶのに格好の穴場だ。家のそばにある自然公園の外れには、どこまでも続くあぜ道と向日葵畑がひっそりと夏の日射しを受けて揺れている。夏の昼下がりでは、この道をゆく人もまばらだった。
 指先から離れた瞬間、青空に軌道を描くように紙飛行機は高く高く飛んでいく。向日葵畑をつっきりながら、陽子は夢中で自分の放った紙飛行機を追いかける。
「いっけー!!」
 小さな手でひさしを作っても尚陽子は目を眇める。空と紙飛行機。青と白のコントラストが眩しい。風に嬲られた飛行機はふらふらと地面に向かって落ちていく。それでも陽子は手をたたいて飛び跳ねた。
「やった!最高記録!!」
 お母さんに教えてあげなくちゃ、そう息巻いて陽子は麦わら帽子を抑え、紙飛行機の落下地点まで駆けていく。唐突に、今日の帰りの会での会話が浮かぶ。
『やっぱり女の子のきゅうきょくの夢は王子様だよ、ね、ようこちゃん』
 正直言って、王子様なんて夢見たことはあまりない。陽子は女の子らしいねとよく言われるけど、それは正直言ってお父さんがスカート以外はくことを許さないからだ。だけど陽子は本当はズボンをはいて、力いっぱい駆け回りたかった。そんなことはとても口には出せないけれど。
すぐに目の前の緑の草の上に、ポツンと白い紙飛行機が落ちているのを見つけた。陽子が紙飛行機を拾おうとかがんだ、その時だった。

「見つけた」

 風が吹く。
 陽子が振り向けば、ひとりの青年が立っていた。透けるような金の髪。白磁の肌。静かな色調が似合っていてまるで冬のような人だと陽子は思った。
「…?お兄ちゃん、だれ?」
「ケイキ」
 景麒は少女を見つめる。

「…貴方…なのか」

 向日葵が揺れる。赤みを帯びた少女の髪が風に揺らぐ。
「貴方なのか…」
 気がつけば、同じ言葉を景麒は繰り返しこぼしていた。麦わら帽子の薄い影の下、少女の驚いたような瞳には色素の薄い自分が溶けている。やっと見つけた――――景王。だけど景麒は呆然と殴られたように少女を見つめていた。荒廃した故国を離れた生き残った麒麟の影が落ちる。

痛いくらいに濃く澄み渡った夏の青空。積み上がる白い入道雲に、日差しを仰ぐ黄色の向日葵。

絵の具を絞ったような景色の中。
出会った主は――――あまりに幼すぎた。




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